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会津若松周辺 歴史散策 [お寺と神社]

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会津ファンの仕事仲間と会津若松周辺のドライブへ。
なんとなく付き合いで出かけてみたものの、
気がつけば自分の方が撮影に熱中していた。

今回はお付き合いで撮影ばかりもしていられないので
また今度一人でくることにする。

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土津神社 NIKON Df AF NIKKOR 35-70mm F2.8

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土津神社 NIKON Df AF NIKKOR 35-70mm F2.8

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飯盛山 さざえ堂 NIKON Df  AF Nikkor 35mm f/2D

滝沢本陣は歴史小説などでよく登場するところ。
参観料金300円払い、なにげなく入ってみたら、

おお!!!
外から差し込む光がつくる古い家屋の陰影に感動。
これはまたこなければ!!

_DSC9468-5.jpg
滝沢本陣 NIKON Df  AF-S NIKKOR 50mm f/1.8G
以上2018.9撮影

よし、あらためて撮影に来ることにしよう。


土津神社 概要
土津神社は延宝3年(1675年)、磐梯山麓見祢山の地に葬られた保科正之の墓所に造営された。「土津」(はにつ)という名称は、寛文11年(1671年)に正之が吉川惟足より吉川神道の奥義を授けられた際に「土津」の霊神号を送られたことに由来している。翌寛文12年12月18日(1673年2月4日)に正之が死去すると、遺言通り見祢山の麓・磐椅神社の西方に葬られた。正之は生前、死後は磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社となって永遠に神に奉仕したいと望んでいたという。そのため、土津神社は磐椅神社の末社となっている。現在境内には、明治13年(1880年)に再建された社殿と7つの末社、山崎闇斎の撰文で正之の治績を刻んだ高さ7.3mの土津霊神之碑があり、さらに奥の院として正之の墓所がある。

歴史
寛文12年8月11日、正之は重臣と共に見祢山へ登り、磐椅神社へ参拝した。その時にこの地を気に入り、自らの墓所と定めたという。翌年に正之が死去すると、遺言どおりにその地に葬られ、神式の葬儀によって埋葬された。この時期、江戸幕府は葬式は仏式によるものと定めていたが、吉川惟足が老中稲葉正則と交渉し、神式で執り行う旨の許可をとった。
その後、前述したとおり2年後の延宝3年に墓所の南側約1キロメートルの地に土津神社が造営された。古来の正式に則った神殿造で、日光東照宮と比較されるほどの絢爛豪華な建物だったという。
しかし、慶応4年(1868年)の戊辰戦争時、母成峠の戦いで会津藩が敗れた後、猪苗代城代高橋権大夫の命で土津神社には火が放たれ、全焼してしまった。その後、会津藩が斗南藩(現・青森県下北半島)に移封されると、土津神社の御神体も斗南藩に遷された。明治4年(1871年)の廃藩置県によって斗南藩が廃されると、御神体は猪苗代へ戻り、磐椅神社に祀られた。この後、明治7年(1874年)から土津神社の再建が始まり、同13年に完成し、御神体が遷されて現在に至っている。
昭和62年(1987年)5月12日、会津若松市東山町と耶麻郡猪苗代町に所在する「会津藩主松平家墓所」が国の史跡に指定された。
「土津神社」2018年7月26日 (木) 21:40UTCの版『ウィキペディア日本語版』。 https://ja.wikipedia.org/wiki/土津神社



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