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小雪の会津 中野竹子殉節之地

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如来堂訪問のあと、中野竹子殉節之地を訪ねる。
すぐ近くにあった。


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SONY a7Ⅱ Nikkor-N Auto24mm f/2.8


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NIKON Df AF Nikkor 35mm f/2D


こんな市街地の中にひっそりとあった。

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NIKON Df AF Nikkor 35mm f/2D


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NIKON Df AF-S NIKKOR 85mm f/1.8G


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SONY a7Ⅱ Ai Nikkor 50mm F1.8S


現地の解説板

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NIKON Df AF Nikkor 35mm f/2D


中野 竹子(なかの たけこ)は、幕末期の会津藩の女性である。会津戦争において自主的に婦女隊として戦い、戦死した。しばしば烈女(烈婦)と称される。雅号は小竹(しょうちく)で、中野 小竹とも言う。

新政府軍が城下に侵攻した際、照姫を会津坂下で捜索していたことから、若松城へ入り損ねて、母・こう子らと共に婦女隊(娘子軍)を結成することになった。古屋佐久左衛門の衝鋒隊に混ざって戦いに加わることを許された前夜、こう子と竹子は婦女隊で最年少の優子がこれに加わるのは無理ではないか、足手まといになるのではないかと話し合い、妹は特に美人だったこともあり、敵に捕まって辱めを受けるより先に殺してやろうと考えた。しかし眠っていた優子を殺そうとした矢先、同隊の依田菊子がこれを止めに入って、戦場で一緒に死のうということになった。
戦闘では、竹子は奮戦したが頭に銃弾を受けて戦死した。首級を敵に与えることを潔しとしなかったので、こう子と優子は敵を薙ぎ払い、竹子を介錯して彼女の首を回収した。なお、竹子は胸を撃たれたという説もあり、その場合はまだ息があって自ら優子に介錯を頼んだという話となる。首級は後にこう子または農民の手により会津坂下町の法界寺に埋葬された。享年は20と言われているが、18や22などの異説がある。戒名は美性院芳列筆鏡小竹大姉。
辞世の歌は「ものゝふの猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも 」で、この句を認めた短冊を薙刀に結び付けて戦っていた。この薙刀は坂下町の骨董店より流出し、広瀬村長の生江家が所蔵していたが、現在は法界寺に寄贈されている。柄の長さ五尺三寸、刃の長さ一尺五寸、切先が欠けている。
戦闘後、こう子や優子は鶴ヶ城に入って、山本八重らと合流した。
中野竹子」2018年10月4日 (木) 10:11 UTCの版『ウィキペディア日本語版』。 https://ja.wikipedia.org/wiki/中野竹子

中野竹子 | 八重が刻んだ「足跡」 | 八重のふるさと、福島県
http://www.yae-mottoshiritai.jp/ashiato/nakano-takeko.html



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